映像という神秘と快楽―“世界”と触れ合うためのレッスン
本書はあえて時代に背を向けて、徹底的に自分の映像体験へと内的に遡行することにした。いったいなぜ私は映画オタクなのか。なぜ私は繰り返し繰り返し映画を見つづけてきたのか。そして写真はいかなる魅力でもって私を魅惑しつづけてきたのか。そのような映像経験に関する内的な問いを突き詰めて考えることが、本書の試みである。 (「あとがき」より) 序 第1部 写真という神秘と狂気 1 ベルグソン、あるいは写真としての現実 2 バルト、あるいは触覚的メディアとしての写真 3 バザン、あるいは痕跡としての写真 4 「人影」、あるいは写真としての原爆 5 べンヤミン、あるいは視覚的無意識としての写真 6 記憶痕跡としての写真---手塚治虫の『白い幻影』 7 ゴーリキー、あるいは単調な灰色の世界としての映像 8 戦時下のヴァーチャル・リアリティ---『南の島に雪が降る』 9 「まなざしなき視覚」とヴァーチャル・リアリティ 第2部 カメラという残酷と愛情 10 顔写真の政治学---「酒鬼薔薇聖斗」問題をめぐって 11 意味記憶とエピソード記憶---『記憶が失われたとき」 12 ドキュメンタリー映画における単独性 13 生命なき世界としての視覚的失認症 14 「具体の視線」としてのイディオ・サバン 15 バラージュ、あるいは相貌的知覚としてのカメラ 16 蓮實重彦、あるいはカメラの眼をもった男 17 子供の視線としてのカメラ---ロッセリーニからキアロスタミヘ 18 ピロピロ笛、あるいは存在の情けなさとしての神代辰巳 第3部 映画という反復の快楽 19 機械的反復の魅惑としての『どですかでん』 20 フロイト、あるいは映画カメラとしての人間的視線 21 快感原則の彼岸としてのリュミエール映画 22 アルコール先生、あるいはチャップリンの機械恐怖症 23 小津安二郎、あるいは単調な機械的反復 24 「空っぼ」の反復という快楽---黒沢清の『CURE』 25 北野武、あるいは「死」の快楽としての反復 26 アドルノとホルクハイマー、あるいは古典的ハリウッド映画における反復 27 映画観客の笑いと機械的反復 28 ドゥルーズ、あるいは世界を信じることとしての映画 あとがき