眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』
ついに、『シネマ』がわかる! 思想界に颯爽と現れた26歳の新鋭、衝撃のデビュー作! 「たんに見る」ことの難しさと創造性をめぐって書かれた画期的なドゥルーズ『シネマ』入門。 本書は、「見る」ことと「読む」ことの復権を同時に実現する。 20世紀最大の哲学者、ジル・ドゥルーズが著した芸術と哲学をめぐる二巻本『シネマ』。 本書は、『シネマ』にとって、映画は哲学の「フッテージ(footage)」、つまり「思考の素材=足場」であると捉えなおすことから議論を開始する。 その映画というフッテージに、もうひとりの重要な哲学者となるアンリ・ベルクソンの哲学が流しこまれる。そのとき映画はイメージ=映像による〈思考〉の実践として立ち現れてくるのだ。 『シネマ』と映画の関係、ドゥルーズとベルクソンの関係というふたつの問いは、哲学にとって「見る」ことと「読む」ことがいかにして概念の創造へと導かれるかということを指し示している。 映画という特殊な経験のシステムから立ちあがる、イメージがそれ以上でもそれ以下でもなく見たままで現れる地平、「眼がスクリーンになるとき」とはどのようなことか。 そのとき観客である私たちはどんな存在へと生成するのか。 また、「私は素朴な観客です」というドゥルーズの言葉どおり、「見たまま」を肯定する態度は、ドゥルーズの哲学の創造性とどのようなつながりがあるのだろうか。 映画から哲学へ、哲学から映画へ、まっすぐに『シネマ』の核心へとスリリングに論じぬく、新鋭のデビュー作 ! はじめに 第一章 映画と哲学、ベルクソンとドゥルーズ 1-1 『シネマ』と映画 1-2 ベルクソンにおけるイメージと運動 1-3 ベルクソンの「映画的錯覚」批判とベルクソニズムによるその解決 第二章 運動イメージ――感覚-運動的に思考する映画 2-1 運動イメージの分化――宇宙の構築 2-2 運動イメージの種別化――主観性の物質的アスペクト 2-3 映画的思考1――全体とフィギュールの思考、画面外と音声 第三章 運動と時間 3-1 運動から時間へ?――ランシエールの『シネマ』批判をめぐって 3-2 零次性としての知覚イメージ――物の知覚 3-3 眼がスクリーンになるとき――運動と時間 第四章 第一、第二の時間イメージ――視-聴覚的に思考する映画 4-1 結晶イメージの境位――知覚と記憶の同時性 4-2 過去の共存と現在の同時性――「脳」と「宇宙」の新しい意味 4-3 映画的思考2――〈外〉と定理の思考、視-聴覚的映画 補遺 ドゥルーズの「減算と縮約」 第五章 第三の時間イメージ――ひとつのおなじ結論の三つの異なるバージョン 5-1 私に身体を与えてください――瞬間に持続を導入する 5-2 偽なるものが力能になるとき――『シネマ』の物語論 5-3 ふたたび『シネマ』と映画、ベルクソンとドゥルーズ 文献一覧 あとがき